『たまゆら~卒業写真~第2部 響』雑感
映画館まで足を運んで、たまゆらの第2部を見に行ってまいりました。
以下、ネタバレを含む雑感です。
今回も第1部に引き続いての2話構成。前半はのりえ、後半はかおるをそれぞれフィーチャーしつつ、彼女たちの卒業後の進路に迫ります。
まずは前半ののりえ。在宅中の兄とひょんなことからいざこざを抱え、それを真に受けたのりえは、「スイーツ禁止」を心に決めます。そんなのりえを目にしたぽってたちは、「おいおい、のりえもん、君からスイーツを取ったらただのかしましいJKじゃないかよ」……とは言わずに、迷惑を承知でのりえが作ったスイーツへの想いを伝えます。
この「迷惑を承知で」というのが、非常にたまゆらの4人らしいですね。決して互いの考えを探り合うわけではないのですが、それでも相手の心情を慮って接する。親しき仲にも礼儀あり、とは少し違うかもしれませんが、何というか、成熟した距離感を感じます。
さて、そんなこんなで再びスイーツ創作を楽しむのりえ。そんなのりえに謝罪と激励の言葉をかけるのりえ兄。いざこざも解消され、のりえは国境を超えるスイーツを作る職人を志すのです。
兄の言葉に一喜一憂して進路を二転三転させたのりえにとって、兄は相当大きな存在だったのでしょう。そんなのりえ兄ですが、サトジュン作品に頻繁に(?)登場する、根は良いけど素直になれない、いわゆるツンデレ男子キャラです。のりえの性格を考えると、もっとぶっ飛んだキャラでもよかったような気がするので、ややキャラ付けが弱いように感じました。それともさよみさんと面識があったようなので、過去にその辺りの関係で弱い立ち位置に追い込まれたのか……。うん、そんな気がするぞ。
続いて後半はかおる回。アロマを趣味と捉えるかおるは、他に格別やりたいこともなく、なんとなくでしか進路を決められない宙ぶらりん状態にあることを自覚します。「自分でスイッチを入れられない」というかおるの悩みは、4人の中で1番のしっかり者で、友人たちを見守ることに精を尽くしてきた彼女ならではのものかもしれません。しかし姉・さよみは、かおるが人を喜ばせるためにスイッチを入れられる人間であると指摘。そして人々を笑顔にするウエディングプランナーの仕事に心を惹かれたかおるは、それを将来の夢として見据えるのです。
のりえはシリーズを通してスイーツ一筋でしたが、一方でかおるはアロマをあくまでも「趣味」として、一見何の関係もないウエディングプランナーを希望します。実際、アロマに関わる職業もいくつかはあるはずですし、それを選択する道もあったでしょう。しかし「人を喜ばせる」というかおるの性格の本質を浮き彫りにしながら、まったく別の道への大転換を描いてみせました。それを可能としたのは、やはり『たまゆら』コンテンツがこれまで培ってきた土台にあると思います。1クールもので同じ展開をしても、さすがに腑に落ちないところがあるでしょうし。あらゆるスタッフ・キャスト・ファンのキャラクター愛があってこそのかおるの進路だと思うと、感無量です。
ところで、ちもさんと堂郷の婚約が描かれましたね(中の人の婚約はまだだけど)。監督はサブキャラも含めてひとりひとりの将来に何らかの決着を与える、という趣旨のことをおっしゃっていたと記憶していますが、その1つでしょうか。こうしていくと、次第に各々の「卒業」が見えてきて、寂寞の想いに駆られます。ですがあと2回。あとは見守るしかできないので、ひたすら見守りましょう。
『スタンド・バイ・ミー』雑感
先日サンテレビにて映画『スタンド・バイ・ミー』が何故だか放送されていたのを目にしました。その雑感です。
主題歌の知名度もあって、タイトルは非常に有名な本作。多くの映画ファンが名作と称する作品ですが、実際に観るのは初めてでした。
ストーリーとしては、4人の悪ガキが死体を探してひたすら線路の上を歩くだけのお話。全体の中でこれといって見せ場となる盛り上がりはなく、最近のアメリカ映画と比べても視覚的快感はほとんどない、いわば地味な映画でした。
しかしその地味さはシンプルさとも言い換えられます。つまり無駄がなく洗練されている。そんな印象を受けました。
映画の核となる要素はずばり、子供、線路、死体の3つのみ。それぞれが「子供の世界」を象徴するメタファーとして上手く機能しています。
主人公たる4人の子供は、みな個性的な性格の持ち主ですが、彼らはまさに「子供心」の象徴です。好奇心と臆病さ、家族への愛情と確執、倫理的な精神と反社会的な精神、などなど、ティーンネイジャーなら誰しもが経験するであろう複雑な心理を、4人が分担して表徴しているように思えます。
その彼らが歩を進めるのが線路ですが、これは差し詰め「人生」のメタファーでしょうか。線路の上を生身で歩くことが許されるのは子供たちだけ。行きは様々な困難を乗り越えながら意気揚々と目標の死体向かって前進します。一方帰りは死体を手放し、黙々と歩み続け、ゴールである町に着くと小学生として最後となる別れの言葉を告げます。まるで行きは子供の夢へと続く道、帰りは大人という現実へと続く道を表しているようです。
とすると死体は「子供の夢」のメタファーとなります。テレビか映画ぐらいでしかお目にかかれない事故による死体は、子供にとってはまさに夢そのもの。この夢は子供たちの歩みの原動力となります。しかし実際に目にした死体は、そんな夢や理想とは程遠い、単なる現実としての死体に過ぎませんでした。銃の引き金を引いて死体を守ったのは、夢見がちな子供として生きるための最後の抵抗でしょうか。その抵抗を終えた4人は匿名で通報するという、最も冷静で現実的な方途を選択し、帰路に着きます。
だからこれは、子供が子供として生き、そして大人になる。それだけのお話。何のスペクタクルも社会的なメッセージもありません。しかし人間誰しもがいろんな仕方で経験することを、シンプルな表現を通して簡潔に描き切っている。だからこそ視聴者の心に普遍的に訴えるのでしょう。
作中の言葉を用いれば「大人にとってはどうでもよいが、子供にとっては重要だったこと」、これが作中にちりばめられ、私たちの感性を刺激します。
Jesus, does anyone?
『ARIA The Animation』雑感
ニコ生にて一挙放送された『ARIA The Animation』をタイムシフト視聴(初見)しました。「試験前の作業用に垂れ流しておくか」、という程度の気概で再生したのですが、垂れ流すだなんてとんでもない、噂通りの名作でした。
私は佐藤順一監督のアニメでいうと、『たまゆら』シリーズを愛好しています。竹原という風光明媚な空間に流れる緩やかな時間と温かい人間関係が心にしみる作品です。本作『ARIA』は「日常系アニメの元祖」とも称される作品ですが、監督を同じくする日常系アニメ『たまゆら』は『ARIA』抜きには語れないのではないかと思わせるくらい、両作の共通項は多分に見出されます。それゆえ『たまゆら』好きの私がこの『ARIA』を気に入るのは、当然の帰結でした。
『ARIA』における大きな魅力の1つは、人々による土地への愛着と、土地が結び付ける人々の関係性でしょう。ここでの土地とはもちろん、ネオヴェネツィアにほかなりません。
ネオヴェネツィアが位置するのは、テラフォーミングされた火星・アクア。一方の地球はマンホームと呼ばれ、名前から察するに、人類の故郷のようなイメージを与えられているのかもしれません。とすると、アクアは科学技術によって人為的につくられた、故郷たりえない惑星として捉えられます。生放送のコメントでもあったのですが、科学技術は生活を便利にはするが、往々にして人の生きがいをはく奪する傾きがあります。一面で人生を豊かにしながら、他面で別の豊かさを奪うおそれがあるのです。
しかし本作ではそのような否定的な技術観は一切見られません。むしろ登場人物たちはネオヴェネツィアをホームとして無条件に愛しています。逆にネオヴェネツィアが彼女たちを愛しているかのような描写も見られます。本編はその双方向の地元愛がどのように構成されているのか、その在り様を彼女たちの日常を通して、視聴者に見せつけているのです。
主人公の灯里はその中心人物であり、彼女は時間の流れの一回性に直面することで、地元への愛情を深化させていきます。11話と12話は特にこのことが象徴的に描かれていました。1話から10話まで(春から初冬まででしょうか)は灯里と様々な人たちとの出会いと親交、そして人の温もりと癒しが際立って描写されます。しかし11話、灯里はその楽しみが未来永劫続くものではないことを知ります。時間とともに人は変わらざるを得ない。でも今楽しめることは今が一番楽しめる。この事実は灯里の中に(そして視聴者の中に)時間に対する強い意識の芽生えとして立ち現れます。そして12話。ひょっとしたことから灯里は過去の、開拓されたばかりのネオヴェネツィアに訪れることになります(これはネオヴェネツィアから彼女への祝福かもしれません)。水の存在を当然視していた灯里と、水の供給による地元の繁栄を心から願っている昔の人々との邂逅。これは彼女に、時間を超えた地元愛の継承を実感させるに十分だったはずです。
時間とともに変化する人間関係と、いつまでも変わらない人々の地元愛。一見相反する2つの事柄を連続的に経験した灯里は、より一層ネオヴェネツィアとそこに住む仲間への愛情を深めたことでしょう。
こうした街への愛情と街からの愛情のようなものは、後のアニメ『CLANNAD』だったり、先述した『たまゆら』などで強く打ち出されるテーマです。また本作全体に流れるスローライフな日常とそれがもたらす癒しは、昨今のいわゆる日常系アニメで幾度となく表現されています。このことを考えると、『ARIA』はまさに今日のアニメ潮流の先駆と呼ぶに足る名作と言えるのではないでしょうか。これほどの作品が10年前に作られていたとは、いやはや驚きです。
2期の一挙放送は決定しており、様子をうかがうに、3期も放送されそうなので、首を長くして待つことにします。そして映画の方も、新参者ながら足を運ぶ所存です。
『うーさーのその日暮らし 夢幻編』4話雑感
『がっこうぐらし!』を日常系として見る
アニメ『がっこうぐらし!』、人気ですね。話題性とインパクトでいえば今期トップでしょう。私も毎週楽しみにしている作品で、今のところ3話まで視聴しました。
人気の火付け的な役割を担った要素の1つとして、ヴィジュアルとのギャップがあることは間違いありません。可愛い女の子のほのぼのストーリーと見せかけて、シリアスでハードな展開を描く。この手法自体はまどマギ以来一般化されていますし、ましてや本作は漫画原作のアニメですので、意外性を獲得するのは難しいのではないかと予想していました。しかし初回の構成と演出が絶妙で、単なるギャップでは収まらないインパクトを感じました。
この衝撃を与える「ギャップ+α」の要素、そして作品のベースともなっている要素、それは、ほかならぬ日常性にあると思うのです。
ハードな展開を基調とする作品は、必然的にキャラクターたちを非日常的な極限状態のもとに据え置くことになります。この極限状態におけるピーキーな心理描写や人間関係の変容を如何に上手く描くかが、作品の良し悪しを決定する大きなファクターとなります。
『がっこうぐらし!』も心理描写に多くを当てているアニメではあります。が、それは極限に追い込まれて狂っていく様を見せるものではなく、あくまでも非日常空間における日常性に寄り添った形で体現されていると捉えることも可能です。その日常性の象徴が主人公たるゆきです。
ゾンビがウヨウヨとひしめき合い、助けを求めることはおろか、外部に生存者を確認することすらできない閉鎖空間。気が狂わない方がおかしいです。大抵のB級ゾンビものなら、「俺はもうこんな学校なんてたくさんだ!」とか何とか言って、マッドなアクションを起こす輩が出てくることもしばしば。実際、くるみ、みーさん、りーくんの3人だけが生き残ったら、そんな展開も有り得たかもしれません。しかしそこに特に異質な存在として屹立するのがゆきです。ある意味で一番歪なマインドを持ち合わせているキャラですが、彼女の存在のおかげで学園生活部が「いつも通り」と呼べる時間・空間を構築することができています。シャベルで先輩をめった刺しにするくるみのもとへ、ゆきが涙ながらに駆け寄って制止する3話のシーンは特に象徴的です。ゆきがもたらすこの日常性は1話から3話までを通底するテーマであり、その点で本作はやっぱり日常系アニメなのかもしれません。
というわけで、ハードホラーな設定だけでなく、まんがタイムきらららしい日常系の一面も捉えながら観たら、『がっこうぐらし!』をより一層楽しめるのではないかと思った次第です。
ところで、私のお気に入りのキャラはくるみですね。ヴィジュアルもそうですが、小澤亜李のボーイッシュな声は聴いていて気持ちがいいです。原作は未読ですが、5巻の表紙に載っているので、途中退場とかはない・・・はず。