雑感アウトプット

アニメ、映画、漫画、小説、学術書等々の雑多な感想の書き残し。

放課後のプレアデスまとめ雑感

放課後のプレアデス』最終回12話「渚にて」視聴しました。

皆バラバラになりつつも、欠片集めで得た友情と成長を胸に、それぞれが「自分になる」ことを選ぶ――1話から一貫して描いてきたテーマを受け止め、上手く纏めた最終回となりました。

この『放課後のプレアデス』ですが、放送前からの話題性の低さ、序盤から漂う「イロモノ」感(ドライブシャフトのエンジン音とか)が災いしたのでしょうか、低迷する知名度を保ったまま完結してしまったように思われます。

しかし今季2015年春アニメの中では、諸々の観点からしてトップクラスのクオリティを実現した作品でありますし、私の琴線に触れる名作であったことは間違いありません。というわけで以下、『放課後のプレアデス』の魅力について書き残します。

 

SFとファンタジーの融合

 過去、SFといえばアニメにおけるポピュラージャンルの1つであり、実際、多くの名作SFアニメが生み出されてきました。エヴァ攻殻ハガレンハルヒ、シュタゲ……数えればきりがありません。これは『鉄腕アトム』あたりからの伝統的な系譜なのでしょうが、今ではSF畑で活躍するプロからも日本のSFアニメは衆目を集めています(映画『第9地区』が顕著です)。

本作『放課後のプレアデス』もその流れに位置づけられるほどのSF要素を含んでいますが、さらに言えば、過去に類を見ないほど「SFしている」作品でもあります。その根拠として挙げられるのが、全編を通してなされている綿密な科学的考証です。

個人的には5話が特にその傾向が見られる回だと考えています。何といっても、土星が楕円体で描かれているのです!そもそも惑星が登場するアニメ自体数少ないですが、楕円体の土星が現れる作品は他にないのではないでしょうか。

もちろんそんなのは序の口。太陽のリアルな描写や相対性理論の援用、科学館とのコラボ展開など、表現手法、表現内容、商業展開といったあらゆる面で科学的要素を前面に押し出していることが伺えます(最終話のサブタイトル「渚にて」も1959年のアメリカのSF映画から取っていると考えられます)。私の印象としては、本作はこれまでのアニメの中で、最もハードSFに接近した作品であったと思っています。

しかしもちろんこの作品をハードSFと呼ぶ人は(あまり)いません。教室と異空間がつながっていたり、宇宙人と普通に会話したり、何より美少女が箒に乗って深海やら宇宙やらに行ったり……。まあファンタジーとして位置付けるのが無難でしょう。

この色濃いファンタジー要素とハードなSF要素とを結び付けているものとして2つ挙げられると思われます。

1つは説明をブッ飛ばした展開です。本作、易しい説明台詞がほとんどありません。難しい説明台詞は会長がいくらでもしてくれたのですが、おそらく視聴者に理解させようという意図は欠片もないでしょう。ですので、「なんかよく分からんけど、科学っぽいことやっとるわー」ぐらいに落ち着く視聴者が大勢いたことと思われます。そしてこの「理解できない科学っぽいこと」がまさに「行き過ぎた科学は魔法のように見える」を体現しているのだと思うのです(最終話の「ブラックホールをひっくり返す!」がまさにこれです)。この点でSFと科学の連結が成功しいるのではないでしょうか。

もう1つは科学から着想を得たファンタジー設定にほかなりません。何にもなれない、確定していない自分。そんな自分に焦りを覚えながらも変わることができないでいる自分。しかしそれは同時に無限の可能性を秘めた希望の力でもある――作品の中枢をなす一貫したテーマですが、これが量子力学から着想を得たのは疑いようのないことでしょう。設定の背後に潜むこうした科学性が、SFとファンタジーの中和・融合を可能にした面も見過ごせません。

 

「なんにもないなら なんにでもなれるはず」。迷いながらも今を生きる中学生の青春と科学的考証とを互いにオーバーラップさせたスタッフのセンスに脱帽するとともに、『放課後のプレアデス』を機に、これからのアニメ業界に新しく瑞々しいSFの展開が現れることを期待します。そして素晴らしい作品を創ってくださったGAINAXさんに仕事が舞い降りますように……。