評論家気取りのすすめ――アニメの見方と多様性
大学の講義で「美学」なるものを受講しておりまして、そこで得た雑感を書き残します。
美学とは、とんでもなく大雑把に言ってしまえば、「“美しい”とはどういうことか」を研究する学問で、哲学の一分野として語られることが多いです(実際は美しさに限らず人間の感性全般に関わるのですが、そこら辺は触れないでおきます)。
さて、先日の講義の中で芸術、とりわけ現代アートの価値の在り方について少し学びました。内容をまとめると、芸術作品の価値は、物質的な在り様ではなく、言語的構成物としての意味に依存しながら決定される、とのこと。
厳密な哲学的文脈におけるこの論の妥当性は私の知るところではありません。しかし少なくとも現代アートに対して抱いてきた私の偏った見方がいくらか解された、というのは紛うことなき事実です。
粘土を適当にこねくり回してできた物体をアートと称して展示されても、「こんなの俺でも作れるわい!」と考えていました。でも違うんですね。確かに技術的には私にも作れるかも知れませんが、そんなマテリアルな側面は作品の価値と関係しない。大事なのは作品にどういう意味を与えられるのか、ということ。
とまあ現代アートの話は今回はどうでもよくて、重要なポイントはいわゆるプロの評論家の立ち位置です。芸術評論家に対する私の中のイメージは「ポピュラーな作品を無視して(ときに貶めて)、一般大衆の理解が及ばない作品を名作として祭り上げ、調子に乗っている連中」だったのですが、これはあまりにも極端すぎるし、偏っていました。実際は物質よりもむしろそれが内在する意味を見つめる「プロの視点」みたいなものを通して、彼らは作品を評価しているのだと今は感じます。これは確かに一般人からは理解されえないかもしれませんが、充分に妥当な芸術評価の仕方の1つだと言えるのではないでしょうか。
さて、ではこれを現代アートではなく、大好きなアニメに当てはめてみよう!という非常に恣意的な試みを思いついてしまうのが私です。そこで講義の議論を延長させてみたのですが、どうあがいても「純粋に物質的あるいは即物的な側面からアニメ作品を判断・評価するのは不適当であり、逆に言語的に構成される意味論の見地から鑑賞することが視聴者には求められる」などという高尚な意見には到達できませんでした。だってアニメはサブカルチャーであると同時にポップカルチャーですから、全員が全員そんなニッチな楽しみ方をするようなコンテンツではありません。「キャラが可愛い/格好いい!」という理由でエンジョイすることに何の問題も見出せはしません。
しかしそうでないような見方、例えばプロの評論家を気取ったような見方もあってしかるべきだと思うのです。すなわち表現技法の斬新さ、脚本の文学的価値、作品のアニメ史における意義などなど、いわば「真面目」な基準から作品を評価する視座がもっとあっていいと言うことができます。というのも、この見方がアニメ業界全体に多様性と潤いをもたらすかもしれないからです。
いくらアニメが一般層に向けて普及したとはいえ、アニメを積極的に視聴し、諸々のアニメ商品を購入する世代層は限られています。そして限られた世代層には多かれ少なかれ共通した趣味嗜好が存在するものです。この共通の趣味嗜好が直接アニメの売り上げに影響を与えるとしたらどうなるでしょう。間違いなく同系統の作品ばかりが売れ、しまいには同系統の作品ばかりが作られるようになるかもしれません。現在の日本のアニメ業界は、確かに定期的に名作と呼ぶに足る作品を提供してはいますが、一方で均質化の波に呑まれつつあるように思えるのです。この均質化をせき止め、多様性を与えてくれる存在、その1つが「風変りを気取った視点」と言えましょう。
クリエイターが好きな時に好きな作品を制作できる環境ができたら、そんなに素晴らしいことはありません。最近ではアニメ(ーター)見本市のような企画や、クラウドファンディングの流行はその環境へ接近するものであるとみなすことができます。しかし実際問題、アニメは商業作品として確立されてしまっていますし、売り上げが期待されるもの、すなわち一般受けするものが多くつくられる傾向が表れるのは避けられません。だからこそ商業主義をある程度許容するにしても、それが作品の均質化へと直結しないようにする意識レベルの努力が視聴者もとい消費者側に求められているのではないでしょうか。Let's 評論家気取り!
響け!ユーフォニアムまとめ雑感
2015年春クール、私の中にカタストロフを生じせしめる作品と出会えました。ほかでもない『響け!ユーフォニアム』です。部活・青春モノの名作であることは間違いなく、個人的には京都アニメーションの最高傑作であり、アニメを語るうえでの義務的作品と言っても過言ではない作品――それだけのクオリティを毎週提供してくれました。
以下、第1話から最終話までのまとめ雑感を書き残します。
作画が伝える空気感
京アニの作画クオリティの高さは周知のとおりですが、本作『響け!』は数ある京アニ作品群の中でも、何か「風格」とでも呼ぶべきものを持っているように思えます。そうした印象を与える最も大きな要因が、全編を通して表現されている、画面の中の空気感です。
生々しいリアリティを持つものとして伝わってくるあの空気感を言語化するのは困難、というより私のボキャブラリーでは不可能であることがもはや自明ですので、それについては諦めます。ですが、書き留めておきたいのは、2次元の映像から伝播するあの迫真の空気感(単なる雰囲気ではなく、まさに私を主体とする「感じ」)です。
例えば、色鮮やかな桜の雨を描けば、どんな日本人でもその場面が春の季節に相当することが頭で理解できます。これは桜が春を象徴する記号としての役割を果たしているからであり、アニメに限らず、数多くの作品が桜によって春を表現してきました。第1話の下校シーンで、本作もその表現に成功していることは疑いようのない事実なのですが、さらにその一歩先を行った表現を、作画として達成しているように思えてならないのです。寒さから解放され、徐々に温もりを得ていく春特有の大気の「感じ」――端的に言えば、自分が画面中の世界に入り込んだような錯覚――が動画から伝わってきます。円盤1巻のコメンタリーで、キャストさんが「匂いが伝わってくる」と仰っていました。まさにそれです。通常、動画というと、視覚・聴覚の2つにしか訴えることができません。しかし『響け!』ではあたかも嗅覚や、温度を感じる触覚にまで影響を与えるような、そんな作画が実現されています。
もう1つ例を挙げるならば12話の夏の表現でしょうか。どういった理屈によるものかは分かりませんが(おそらく光と影の絶妙な扱いが大きいのだと想像できるのですが)、まさに「夏」という「感じ」が全身を以て体感できます。現実の気候も関係していると思うのですが、冬に観てもあの夏らしさは迫真的に伝わってくることでしょう。
このように全身の感官を伴って空気感を味わうことができる、それが本作を「特別」なアニメたらしめる1つの要因です。
感情に執着するシナリオ
今度は上記のような作画技法によって表現される内容、すなわちシナリオについて見てみます。
純粋にストーリーのアウトラインだけを確認してみると、非常に王道に接近した作品、見方によっては平凡とまで言える作品かもしれません。弱小吹奏楽部に新入生と新しい顧問が入って、色々衝突しながらもそれを乗り越え、結果、府大会を勝ち抜いて大団円!ですからね。シリアス寄りの青春モノではよくあるプロットです。しかし本作を観たらすぐに分かるように、これはあくまでも表面的な事件を羅列したアウトラインであり、スタッフが追及した作品の本質ではありません。スタッフが追及した本質、それはキャラクターの感情の機微にほかならないでしょう。
石原監督も仰っていましたが、本作『響け!』のシリーズ構成は、昨今のアニメの潮流を考えると、非常に珍しいものとなっています。狂っているとさえ言っていいかもしれません。
その理由の1つが、明らかなテンポの遅さですね。1話なんて30分丸々使って主人公が吹奏楽部に入るだけ(それも何となくの動機で)。その後も、5話のサンフェスなんかは序盤の大きな見せ場ですが、それ以外はのらりくらりとシナリオが進みます。終盤でも「コンクール直前で再オーディションの下りに時間使ってんじゃねーよ!」と言いたくなるぐらい。しかも結果的に再オーディションをしてもしなくても麗奈がソロなのは変わらなかったというオチ。作品によっては、こんなストーリー展開をしたら怒られるか、場合によってはネタにされるかもしれません。でも本作ではこのスローテンポに違和感を感じない、むしろしっくりくる。それはそれぞれのキャラクターの感情の機微に主眼が置かれているからです。メインの4人はもちろん、部長の葛藤、副部長の闇(?)、葵ちゃんの苦悩、夏紀先輩の変化、香織先輩の夢とリボンちゃんの想い……等々、作品を彩るサブキャラクターの心象も見事に描き切っています。
これは青春を描くうえで最も大切なことだと思うのです。伝統的なアニメ作品は、その世界観の中で生じる「イベント」に重きを置きすぎた傾向があるように見えます。ですが、その「イベント」を引き起こす主体としてのキャラクター、あるいは「イベント」に時に振り回され、時に乗り越えることを余儀なくされる客体としてのキャラクターの「心象」をいかにして描くか。この「心象」をテーマとして捉え、その表現に素晴らしい作画を以て成功した『響け!』は、新しくもあり、同時にどこか懐かしくもある、そんな作品として私には提示されました。
さて、その心象表現の話の延長線上の話題にもなりますが、本作のシナリオの「狂っている」点としてもう1つ、主人公の位置づけが挙げられます。
先にも書きましたが、主人公・久美子は特にこれといった信念も動機づけもないまま吹奏楽部に入ります。そしてその後も7話まではおおよそ傍観者として振る舞うことになります(もちろん久美子が自覚していないレベルでの成長は少なからずあったでしょうが)。大きく意識が変化するのが8話、主人公のポジションとして本領を発揮するのが12話です。……遅い、遅すぎる。最終話目前で覚醒かよ、と。しかしそれが良い。本当に味わい深い。今までずっと何となくで続けてきたユーフォ。それが北宇治高校に入ることで、麗奈の想いに触れることで、麗奈の演奏を聴くことで、熱病となって立ち現れる。初めて「本気」でユーフォと向き合う。だからこそ初めて本当の挫折を経験する。その結果、初めて得られる「ユーフォが好きだ」という自覚と、音楽を続ける動機。この一連の流れを11回かけてじっくりと溜めこみ、12話の30分で主人公の感情として一気に爆発させる。神がかった構成です。
12話は特に京アニの絶妙の作画芝居と、中の人の最高の演技とで話題になりましたが、これらによって表現される久美子の「本気」というのが、『響け!』で描きたかった青春そのものなのではないかと思います。何事も適当に済ましていたら、成功してもそこまで嬉しくないですし、失敗しても悔しくはありません。逆に何事も「本気」で取り組むからこそ、抑えようのない喜怒哀楽が実現されるのです。この感情の爆発が中心に据えられた青春――これが胸を打たないはずがありません。
以上のように、本作『響け!』では、キャラクターの感情に対して「狂っている」レベルの拘りを見出せます。それによってありきたりな青春を象徴するのではなく、生きた「本気の青春」を私たちに「教えて」くれるのです。
百合について
以下、趣味の偏った感想(余談)です。
本作『響け!』はとりわけ8話以降、百合百合しい作品として衆目を集めました。「百合」の定義がかなり拡張された現在、8話のエロティシズムにあふれた描写を百合と呼ぶのは、極めて妥当なことだと私には思われます。実際、百合好きを自称する私は、8話から一気にのめり込みました。
「百合とは何だろうか」。多くの百合好きが抱える問いであり、私もその1人です。本来的には女性同士の同性愛を指すのでしょうが、ではいわゆる「ゆるい百合」は百合ではないのか。まあこれに対する答えは立場やら好みやらによって変わるとしか言えないのですが、この問題について結構真剣に悩んでいる時期がありました。百合作品の在り方が大きく変わっていく中で、自分が好きな百合とは何なのか、そもそも自分は百合が好きなのか、明確な答えを出せないでいました。
そこに表れたのが『響け!ユーフォニアム』です。まさに「これだ!」でしたね。こういう百合を求めていたのだと自覚しました。友情と愛情のボーダーにあるような、あるいはその二元論的な感情構造から遊離した所にあるような、それが私の好きな百合なのです。この種の作品に巡り合えたのは本当に久しかったので、あまりの感動に、方々の検索窓に「くみれい」を打ち込みまくる日々が続いています。
とまあ、思いのたけは粗方綴りました。円盤は全巻購入予定ですし、原作もこれから買って読もうかなと思っております。今のところプロデューサーの方が2期をやりたいと、ちらっと零したということを聞いただけですが、北宇治高校吹奏楽部の「次の曲が始まる」のを期待して、雑感を締めます。
響け!ユーフォニアム13話雑感
放課後のプレアデスまとめ雑感
皆バラバラになりつつも、欠片集めで得た友情と成長を胸に、それぞれが「自分になる」ことを選ぶ――1話から一貫して描いてきたテーマを受け止め、上手く纏めた最終回となりました。
この『放課後のプレアデス』ですが、放送前からの話題性の低さ、序盤から漂う「イロモノ」感(ドライブシャフトのエンジン音とか)が災いしたのでしょうか、低迷する知名度を保ったまま完結してしまったように思われます。
しかし今季2015年春アニメの中では、諸々の観点からしてトップクラスのクオリティを実現した作品でありますし、私の琴線に触れる名作であったことは間違いありません。というわけで以下、『放課後のプレアデス』の魅力について書き残します。
SFとファンタジーの融合
過去、SFといえばアニメにおけるポピュラージャンルの1つであり、実際、多くの名作SFアニメが生み出されてきました。エヴァ、攻殻、ハガレン、ハルヒ、シュタゲ……数えればきりがありません。これは『鉄腕アトム』あたりからの伝統的な系譜なのでしょうが、今ではSF畑で活躍するプロからも日本のSFアニメは衆目を集めています(映画『第9地区』が顕著です)。
本作『放課後のプレアデス』もその流れに位置づけられるほどのSF要素を含んでいますが、さらに言えば、過去に類を見ないほど「SFしている」作品でもあります。その根拠として挙げられるのが、全編を通してなされている綿密な科学的考証です。
個人的には5話が特にその傾向が見られる回だと考えています。何といっても、土星が楕円体で描かれているのです!そもそも惑星が登場するアニメ自体数少ないですが、楕円体の土星が現れる作品は他にないのではないでしょうか。
もちろんそんなのは序の口。太陽のリアルな描写や相対性理論の援用、科学館とのコラボ展開など、表現手法、表現内容、商業展開といったあらゆる面で科学的要素を前面に押し出していることが伺えます(最終話のサブタイトル「渚にて」も1959年のアメリカのSF映画から取っていると考えられます)。私の印象としては、本作はこれまでのアニメの中で、最もハードSFに接近した作品であったと思っています。
しかしもちろんこの作品をハードSFと呼ぶ人は(あまり)いません。教室と異空間がつながっていたり、宇宙人と普通に会話したり、何より美少女が箒に乗って深海やら宇宙やらに行ったり……。まあファンタジーとして位置付けるのが無難でしょう。
この色濃いファンタジー要素とハードなSF要素とを結び付けているものとして2つ挙げられると思われます。
1つは説明をブッ飛ばした展開です。本作、易しい説明台詞がほとんどありません。難しい説明台詞は会長がいくらでもしてくれたのですが、おそらく視聴者に理解させようという意図は欠片もないでしょう。ですので、「なんかよく分からんけど、科学っぽいことやっとるわー」ぐらいに落ち着く視聴者が大勢いたことと思われます。そしてこの「理解できない科学っぽいこと」がまさに「行き過ぎた科学は魔法のように見える」を体現しているのだと思うのです(最終話の「ブラックホールをひっくり返す!」がまさにこれです)。この点でSFと科学の連結が成功しいるのではないでしょうか。
もう1つは科学から着想を得たファンタジー設定にほかなりません。何にもなれない、確定していない自分。そんな自分に焦りを覚えながらも変わることができないでいる自分。しかしそれは同時に無限の可能性を秘めた希望の力でもある――作品の中枢をなす一貫したテーマですが、これが量子力学から着想を得たのは疑いようのないことでしょう。設定の背後に潜むこうした科学性が、SFとファンタジーの中和・融合を可能にした面も見過ごせません。
「なんにもないなら なんにでもなれるはず」。迷いながらも今を生きる中学生の青春と科学的考証とを互いにオーバーラップさせたスタッフのセンスに脱帽するとともに、『放課後のプレアデス』を機に、これからのアニメ業界に新しく瑞々しいSFの展開が現れることを期待します。そして素晴らしい作品を創ってくださったGAINAXさんに仕事が舞い降りますように……。